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【第4回】記紀と漢書の解釈と弥生時代

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歴史ロマン
この記事は約14分で読めます。

さて、前回から随分と間が空いてしまった。実際、第3回で最後としようという断固たる気持ちでいたのだけれど、「記紀」について、少し触れようと思う。少し消化不良なんだよね。

本来、「成立した時代」で分類するなら、古事記や日本書紀は奈良時代の史料である。しかし、弥生時代を考える上で、実は古事記や日本書紀は避けて通れない部分があるのだ。

こんな大きなテーマに触れる前に、寧ろ土器や青銅器の話をしてシリーズを終わらせる方向に向かうべきだったと若干後悔はしているのだが、諦めて少しだけお付き合いいただきたい。

自然に同化した散策路、使いながらつくり続けた17年

2022.09.16

のどかな田園風景の中を、昔からそこにあったような小道が続いていく。日本最大級の古墳群を有する宮崎県西都市が、17年の歳月をかけて整備した逢初川(あいそめがわ)歩行者専用道路「記紀の道」だ。

日経XTECHより

日本最古の歴史書、一般的には神話の時代の話から始まる、ファンタジー要素の強い内容だと知られている。

日経XTECHより

「記紀の道」に整備された東屋のベンチに腰掛けて眺める程度の気持ちで、ほんの少しだけお付き合い願いたい。

  • 記紀と漢籍との齟齬
  • デザインされた古代天皇
  • 弥生時代と記紀

歴史書に示される事実と物語

歴史書を読むのには前提が必要

ご託はさておき、前回も言及しているように記紀と漢籍には祖語がある。

これはあって当然の話で、ない方が胡散臭いことになる。

何故ならば、漢籍(支那において著された書籍)は漢籍は、その時代の王朝のもとで編纂された正史であり、その王朝の価値観や政治的立場が色濃く反映される。当然、その時代の皇帝に都合の良い内容が重視される傾向にある。

一方の記紀は日本の天皇に献上される歴史書であるために、日本の国家のために編纂された内容となる。時の天皇に都合の良い内容になって当然である。

国家ごとに立場が異なるため、同じ出来事でも記述の仕方は変わるので、そういう側面を加味して読む必要がある。

また、漢籍は支那においてまとめられるために、日本のことが記されるとしても、その情報は朝貢してきた使者のフィルターを通したものになる。日本の指導者が直接支那に乗り込んだケースも稀にはあるが、「訳を重ねて」と表現されるように何人もの翻訳者を介してコミニュケーションをとっていたようだ。その指導者または使者が時の皇帝に気に入られる場合も気に入られない場合もある。場合によっては朝鮮半島経由で情報がもたらされるケースもあるわけだ。

釈迦に説法かもしれないが、多くの歴史書はそういった観点から読み進めるものなのである。そして、完璧な歴史書など存在しないということも念頭に置かねばならない。

「倭」に関わる記述のある漢籍

漢籍のうち、「倭」に関わる記述のある漢籍は以下の通りだ。

「漢書」:紀元後54年から20年程かけて班固に編纂される。「楽浪郡の先の海の中に倭人がいて、百余国にわかれており、 定期的に贈り物を持ってやって来た、と言われている。(樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。)」なる記述のみ。

「後漢書」:紀元後432年より范曄により編纂される。「倭」に関する記述は「三国志」からの引用部分が多く、そうでない部分は、「建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。(倭奴国は)倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜った(建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬)」なる記載や、倭国大乱について桓帝・霊帝の間(147年~189年)という大雑把な時代示唆がある。

「三国志」:紀元後233年~297年の生涯を送ったとされる陳寿により編纂される。紀元後280年以降に成立した可能性が高い。「倭」に関する記述は「魏志」烏丸鮮卑東夷伝によるものであり、後に「後漢書」にも引用されることになる。これが日本で言う「魏志倭人伝」である。

なお、この「三国志」には「裴松之の注」というモノが存在する。後の皇帝が陳寿による記載が薄いので、裴松之によって陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録させたようだ。

また、この陳寿による「三国志」から通俗小説「三国志演義」が生まれ、吉川英治の書いた「三国志」は「三国志演義」に基づくものである。「演義」には「七分実事、三分虚構」と評されるように創作部分が盛り込まれ、吉川英治は更にそれに味付けをしているので、あくまで娯楽小説という理解の方が無難だろう。

他に、「宋書」「南斉書」「晋書」「梁書」「隋書」「北史」「南史」「旧唐書」などに記載がなされるが、弥生時代に限ると「漢書」「後漢書」「三国志」の3つの記載を参考にするよりなく、その後の書はほぼこの三書から引いた記載となっているのでここでは割愛する。

記紀について

編纂の理由

記紀については第2回で触れているのだが、特に「日本書紀」の方に少し焦点を当てておきたい。なぜならば、「古事記」とは違って「日本書紀」は外交文書である。特に外交上重要であった支那や朝鮮の歴史と大きな齟齬があるのは宜しくない

「日本書紀」を編纂するにあたって、参考にした文献は「日本書紀」「続日本書紀」に言及されている。

前回言及したように、帝紀ていき」「旧辞くじといった書物や、先祖の物語や地方の伝承を集めた書物、政府の記録といった失われた書籍を原書とし、百済三書(既に遺失している)と呼ばれる史書や、朝鮮の史書である「三国史記」「百済本紀」の他、漢籍を参考にしたようだ。ただし、漢籍については「三国志」以外は漢文を格調高くするための作文の典拠として用いられたとのこと。「三国志」のうち、「魏志」「呉志」は原書とし、「魏志」については書名を示して引用もされている。

つまり、外交文書とするが故に、入手可能な周辺国の歴史書を参考にして、天皇の正当性を外国に示すことの出来る歴史書とする必要があった。これが、編纂の理由である。

これを指示したのは第40代天武天皇だとされており、直接的には天武天皇の息子である舎人とねり親王が指揮したことになっており、成立が紀元後720年であることが「続日本紀」(紀元後797年完成)に記載されている。

しかし、こうした外交文書の作成は第33代推古天皇の時代(在位期間は593年1月15日 ~ 628年4月15日)から計画されたとされ、「日本書紀」によれば蘇我入鹿と厩戸皇子(聖徳太子)が編纂した天皇記すめらみことのふみ」「国記くにつふみ」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」が存在したと紹介されている。

つまり、記載通り620年頃には歴史書に類するものの編纂が、国家事業として始められていたということになる。

疑わしい年代に関する記載

さて、この「日本書紀」だが、記載される年代については怪しい部分が多いと評価されている。

また、明らかに長命な天皇が何人もいることから、「日本書紀」の記述そのものの正確性を疑う人も少なくない。「あれは所詮神話なのだ」と。有名なのは以下の3つだ。

  • 「巻9(神功紀)に見られる年代的不整合」
  • 「国内外の諸史料と巻10の応神紀以降の歴代天皇の在位期間との不整合」
  • 「歴代天皇の在位期間や宝算(享年)における非現実的数字」

ただし、「日本書紀」の記録によれば紀元後604年に百済から僧を招いて暦(太陰太陽暦)を導入している。これは第33代推古天皇の御代である。よって、少なくとも推古天皇以降の記録は暦に齟齬が少ないのは当たり前であり、それ以前の記録と一貫性に欠けるのは無理からぬことである。

推古天皇の思惑

ここで「日本書紀」の記述の信頼性について説明するために、第33代推古天皇の話をしておきたい。

第32代崇峻天皇の暗殺に伴い即位した推古天皇にとって、父である第29代欽明天皇や夫であった第30代敏達天皇との関係があったにせよ、天皇を受け継ぐ正当性が必要であった。更に、第一回の遣隋使(紀元後600年:日本書紀ではなかったことになっている)では、倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使であったにも関わらず、随の初代文皇帝に「政治のあり方が不合理だ」というような誹りを受けたためか、603年に冠位十二階、604年に十七条憲法の導入をして急速な近代化を図っている。

そして、前述のように聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を編纂したとされている。この辺りは実在したであろう歴史書で、「推古」の諡から類推されるように、「古を推しはかる」、つまり歴史書編纂はこの辺りの時代の一大事業だったのだろう。

この一大事業を行うにあたり、例えば推古天皇は、自身が最初の女性天皇にならないように画策した節がある。それで生まれたのが神功皇后だという説があるのだ。

その説では、日本書紀では、漢籍に名が残る卑弥呼を彷彿とさせるような逸話を神功皇后の実績とし、彼女こそ初の女性天皇(第15代)だったということにした。

実際に、明治以前は神功皇后が第15代の天皇であり、夫の第14代仲哀天皇と第15代応神天皇の即位の間を埋めた天皇だとされていた。現代では、神功皇后の存在を疑問視する声がある他、宮内庁は摂政であったという扱いになっているが。

継体天皇の正当性

更に、推古天皇としては暦の導入と共に第26代継体天皇の辺りまでの掘り起こしを重点的に行うとともに、継体天皇の正当性も明記する必要があった。

実は、第26代継体天皇(紀元後507年~531年在位)は、第25代武烈天皇の後継者が居なかったことで、遠縁の筋から探されてきた人物である。諡は「継体」が撰進され、読んで字の如く体制を継いた天皇である。その配偶者は直系の手白香皇女となった。傍系天皇の正統性を立てるための政略的な要因が大きかったとされている。

そこで、その祖である第15代応神天皇とその母の神功皇后、そして応神天皇の父であり神功皇后の夫である第14代仲哀天皇辺りを、漢籍や三国史記の記載と重なるようにデザインしたのでは?というのが僕の私見である。

辻褄合わせの理由を妄想

暦導入は紀元後604年だとされるが、そこから逆算可能な年代(50年前程度)くらいまでが、概ね信頼できる年代ではないだろうか(自分たちの祖父母に尋ねることが可能な範囲)。ただし、「日本書紀」によれば、欽明天皇14年(553)6月の条に、百済から「暦博士」を招き、「暦本」を入手しようとしたという記載がある。成功はしなかったようだが。そして、第26代継体天皇の即位は紀元後507年だとされているので、導入を試みた紀元後553年の50年前程となる。

つまり、継体天皇辺りまでは「歴史」としてできるだけ正確に掘り起こす必要があった。

一方で、それ以前は「神話」的な性格で記載が進められたのだろう。何しろ、連続した暦が導入されていない時代に、細切れで口伝が残されている程度だからだ。いや、前の回で言及したように文章自体は存在した可能性は高いが、その正確性については暦とリンクしないものが殆どだったのではないかと考えるのが妥当だろう。つまり、「神話」として扱わざるを得ない事情もあったと考えられる。やや苦しいこじつけではあるが。

また、内容的な評価としても、第26代継体天皇以後と第25代武烈天皇以前では「日本書紀」の内容の信頼性が違うと言われている。後の研究により、初代神武天皇の時代から紀元後5世紀までは儀鳳暦によって暦日を記述し、それ以降は元嘉暦に切り替わっていることが判明しているので、より新しい儀鳳暦(7世紀に完成される)で古の神話に暦日を当てはめたと言う説がある。

いつまでが弥生時代だったのか

第10代崇神天皇

色々と寄り道をしたが、歴史家の中でも「日本書紀」が神話と歴史を繋ぎ、天皇の正当性を示す目的で作られたという説明をする人は多い。僕の理解もそのようなものだ。

では何故延々、知られていることを説明したのか?といえば、この日本書紀の作られ方にとってキーとなる天皇が何人もいるよという話がしたかったのだ。

そのうちの一人が第33代推古天皇であり、また、内容の記述が切り替わるタイミングの第26代継体天皇、そして、その系譜の祖である第15代応神天皇と第14代仲哀天皇、その后である神功皇后。そして、おそらく実在するだろうとされる第10代崇神天皇と初代神武天皇。

こういった、キーとなる存在の間を繋ぐようなデザインをしたので、天皇の年齢が伸びてしまうなどの不都合なことになった。実際に神功皇后と卑弥呼を同一人物として描き(巻9)、倭の五王の存在も実在の天皇と比定し得るように調整した可能性は指摘されている。

その結果、「日本書紀」の記載は国生みの時代から連綿と記載され、初代神武天皇の即位は紀元前660年にその開始は遡ることに。

そして、もう一人キーとなるのが第10代の崇神天皇だ。崇神天皇はヤマト王権の基盤を整備した人物だとされていて、考古学上、治世時期は3世紀後半から4世紀前半だとされている。

崇神天皇は、日本書紀においては「御肇国天皇はつくにしらすすめらみこと」の名で伝えられている。この尊号は何故か初代の神武天皇と同じ。つまり日本書紀でも特別な天皇という位置づけなんだよね。

個人的にはこの崇神天皇を境に大和時代が始まったとの立場なので、それ以前が弥生時代とすべきではと考えている。そうすると、日本書紀には弥生時代の記載が含まれているという解釈になるわけだ。

日本書紀と弥生時代

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日本書紀に見る弥生時代

さて、妄想成分が多めではあるが「日本書紀」に弥生時代に付いても言及があると説明した。

そして、「日本書紀」が外交文書であるという側面を持つ以上は、漢籍との齟齬は困るわけである。少なくとも日本風に捉えたという内容ならば良いか、全く違う内容というのも困る。逆に言えば漢籍の内容は、それなりに斟酌できるという想定になるのである。あくまで、漢籍があって日本書紀が作られたという立ち位置であることが、大切なのだ。

【第1回】変わる時代区分、弥生時代の始めと終わり
さて、一部の方に好評だった歴史シリーズである。前回シリーズでは水田稲作伝来を軸に縄文時代の話をしたわけだが、調子に乗った僕は続いて弥生時代に手をつけてしまった。縄文時代を調べていて、思った以上に血なまぐさい時代だと感じたんだよね。イメージと…

こちらの記事、第1回では弥生時代の初めと終わりについて言及した。

弥生時代は紀元前1,000年~紀元後300年とする説を採用するよという話である。

そして、漢籍から推定される卑弥呼の生きた時代は170年頃〜248年頃となっていて、彼女の亡くなった時期に作られたのが箸墓古墳(250年頃)だとされている。それ以降、大和時代に突入したということになる。

これが、考古学的な解釈、すなわち崇神天皇の治世時期(250年頃~350年頃)とも符合するんだよね。そうすると、その付近に登場する人物で、卑弥呼や台与に相当する人物がいると考えたほうが自然なのである。

卑弥呼=百襲姫説

一方、箸墓古墳は宮内庁の定義では第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。そんなこともあって卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命(以降、とする百襲姫)説にはそれなりに人気がある。

この百襲姫だが、日本書紀では大物主神の妻となったとされている。

この時代、国中で災害が多く、天皇が八百万の神々を神浅茅原に集めて占い、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げられたとの記載がある。そして、崇神天皇紀には百襲姫と崇神天皇が国家的な危機を救うというエピソードがある。さらに、日本書紀には箸墓の建設について、「昼は人が造り、夜は神が造った」という伝説が残されていることから、かなりの大物であると見られている。

他にも、西殿塚古墳(奈良県天理市)は台与の墓だと言われているし、五条野丸山古墳(奈良県橿原市)は第29代欽明天皇とその妻堅塩媛が埋葬されていると言われている。野口王墓古墳(奈良県明日香村)は第33代推古天皇か第41代持統天皇が埋葬されていると言われている。

つまり、百襲姫も当時の大王に比肩しうる実力者であると、その様に解釈されている。

卑弥呼=百襲姫だとするのであれば、初代神武天皇から7代目までは弥生時代の天皇であるということになる。第10代崇神天皇の皇女は豊鍬入姫命で、卑弥呼の後継者の台与の正体ではないかとされる人物である。

尤も、これはあくまで「そういう説もある」程度の話であることは、重ねて申し上げたい。

天岩戸の伝説と日食

さて、何故、日本書紀の話を延々と書いた上に、卑弥呼=百襲姫を持ち出したかという話なのだけれど、何度も書いたように日本書紀は外交文書としてデザインされたものであった。そして、概ね古事記とも整合する様に作られている。

そして、この時代に日食があったのではないかという研究がある。この研究の結論は残念ながら、「皆既日食があったことは証明できていない」という結論なのだが。

横軸の200年と300年の中間で上に大きく外れている赤と緑の線分は247年日食を表す.緑線は下端が2.5時間より上にあり,全体の流れから大きく外れている.このことから,247年日食は近畿では皆既にならなかったと言える.赤線の下端も,黒縦棒群が示す減少傾向から外れているので,247年日食が北九州で皆既であった可能性は低いと言わざるを得ない.

皆既日食ではないにせよ、部分的には日食になっていた可能性は高そうだ。

そうすると、百襲姫がお隠れになり、台与に代替わりをした象徴的な出来事が、「天岩戸」の話として描かれているのでは?という話に繋がるのである。

第2回でも言及したが、卑弥呼の操る鬼道=占星術であるという説を紹介した。

【第2回】中央集権的な統治とは
さて、第2回に扱うネタは、中央集権的な統治についてのお話。一般的に日本において中央集権国家が成立したのは、6世紀から8世紀初めの飛鳥時代に入ってからとされている。しかし、各地の有力者が「大王」として国家を支配していたヤマト時代も、ある意味中…

そして、弥生時代の気温を調べると、意外なことが分かる。基本的には温暖な気候だったと言われる弥生時代だが、その末期には一時的に気温が下がり飢饉に繋がったことが最近の研究で判明している。

天候を予測して農期のイベントを予言していた彼女にとって、この気候変動に加えて日食の発生は、人々への不安に直結することだった可能性が高い。

箸墓古墳に関連する三輪山伝説や大物主神が夜にしか現れないなどという記載を見るにつけ、この時代の世相が暗示されているような気がする。

台与の存在は豊鍬入姫か

豊鍬入姫は、日本書紀においても巫女的な女性として説明されている。

実は崇神天皇の時代、前述の通り大疫病が流行して国が滅びかけた。この時、神の言葉(託宣)を聴いて天皇に授け、国家の危機を救ったのが、崇神天皇の伯母(または姉)にあたる高名な巫女が、豊鍬入姫なのである。

さて、ここで魏志倭人伝の記述を思い出してみよう。

その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。卑弥呼という名である。(其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。)」「その八年、太守王頎が官にやってきた。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と旧より不和である。(其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和)」と書かれている。また、「年は既に長大だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。(事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。)

これは卑弥呼に関する記載なのだが、この頃の政治体制が王と巫女が一組で国家を統治する体制になっている。そして、卑弥呼の死後、国が荒れるので13歳の台与が女王となり、安定したという記述に続いている。

日本書紀において、百襲姫も豊鍬入姫も巫女であり国政に大きく関わっている。

先ほど紹介した鬼道=星詠で農期を支持していたという説を持ち出すと、この「豊鍬入姫」という名前もかなり意味を持っている気がする。農業に大きく関わっていたという意味に取れるからだ。

まとめ

前回から随分と間が空いてしまった上に、余りまとまっていないのは申し訳ないのだけれども、ここで言いたかったことは、以下の3点に尽きる。

  • 古事記、日本書紀は天皇の正当性を高めるためにデザインされた物語だが、日本各地に散逸した伝説に基づいて作られていて、ある程度は漢籍と対応している
  • 古事記、日本書紀に、弥生時代の欠片を見つけることが出来る
  • 漢籍に書かれたことが全てではないが、擦り合わせることで当時の状況が想像できる

なお、歴史に正解はないので、いろいろな解釈ができるよという程度の紹介だと、その様に読んでいただけるとありがたい。

コメント

  1. 山童 より:

    欠史8代やら空白の4世紀やらあり、
    訳がわからない弥生〜ヤマト王権までの歴史をよくぞまとめたものと感心しております。
    基本的に私は記紀に書いてある各エピソードはだいたい正確と思ってます。
    ただ、あれ時期やキャラや順番を操作してあるでしょう。
    パズルのピースをすり替えしていて、
    だからわかりにくい。
    でも、客観的に考えてゆくと、だいたい木霊様の分析は当たってる想う。

    陳寿の「正史三国志」については、
    まぁまぁ正しいかと。ちうのは何度も書きましたけど、あれは中国の正史には珍しく「現代史」なんすよね。
    陳寿が魏に滅ぼされた蜀の史官の倅たか何だかで、魏の後継王朝である晋に雇われて書いてる。だからあまりインチキな事を書くと頸が飛ぶ!
    んで、魏志倭人伝(三国志魏書の東夷伝倭人条)の邪馬台国の所在地の変さも、晋が三国で最後に残った呉を攻めている時だから、海の向こうの統一政権が陣笠に入ったと言う事は、呉政権への牽制になるから、外交&軍事機密な訳で、それを正直に書くとも思えない。実際、使者も来てるし、邪馬台国も卑弥呼も台与も実在したのでしょ。
    ただ邪馬台国が後のヤマトになったのか否か……連続性については箸墓を発掘調査して物的証拠を出してもらわない事には何とも……てのが感想す。

    それと気になるのは「星詠」とされてる鬼道の天文部分すね。
    奈良の古墳にはかなり正確な天球図が残されていて、天文知識はあった訳ではないですか。
    なのに記紀に出てくる星神は天津甕星だけで、彼は悪神です。
    つか日本神話で星神なのは彼だけ。
    それあまりに変でしょ?
    鹿島神宮と香取神宮の2人の武神。
    この2人が敵わず、天津甕星の同族である倭文神(武葉槌命)に追討を命じて鎮圧するのですが。
    同様に素戔嗚命を「嵐の神」と呼ぶのも変です。天照、月読尊ときて、弟が嵐というのは変すぎる。
    私は素戔嗚は一種のルシファーだと想うんですよ。すなわち「宵から明け方にかけての夜の太陽」で、それは最も輝度の高い金星なのでないかと。
    速素戔嗚の名もあるので、彗星である可能性もある。どちらにしても「天体」ですわね。
    天皇家の正当性に瑕疵をつける存在だから書き換えられた…と想う。
    神には常世など海の向こうから水平移動してきた神と、天から降臨する垂直の神とに宗教学的には分かれます。
    で、天体を崇めるのは基本的に騎馬民族とかの伝統なんすよね。
    (海洋民の宗像のオリオン座とかの例はあるにせよ)もともと高麗とかの素地となったツーングース系は海洋狩猟民でもある。
    んで、素戔嗚は朝鮮半島に降りてます。この当時の日本列島の表日本は日本海側です。つか大航海時代以前はそうでしょう?
    すると、必ずしも北九州でなく、出雲は半島や大陸と繋がっていた可能性は高い。素戔嗚はそっち系の血を引いた
    皇族の末裔だったのではないか?と。
    それで星神(金星)を崇める奴らは、
    天照の子孫たる天皇家には不都合なので、嵐の神にして冥界に葬ったと。
    「たしなみつつ下り」と古事記にありますわね。
    古代日本が半島から鉄鉱石を輸入していたのは、任那府や白村江の戦いからも明らかで、水深が少し深くなると根腐れしてしまう古代稲の生態からして、鉄資源は不可欠ですよね。
    すると半島北部にいた騎馬民族系と何らかの繋がりはあったはず。
    晋書だったか忘れましたが「倭人」のルーツについて、「燕の北方に倭人の国あり」という文が記載されてます。
    燕って、北京近郊の事ですわね。
    つまり今ではすっかり否定された遊牧騎馬民族征服王朝説ですが、あれは「征服」の二文字を外せば、未だ検討の余地ある仮説と想うのすよ。

    • 山童 より:

      そうそう。追記。
      砂鉄製鉄てあるタタラにせよ、鉄鉱石を融解するにせよ、絶対に欠かせない
      物がある!
      それは「フイゴ」です。
      古代において、このフイゴを造るには
      皮革しかなかった!
      農耕民族がどっから皮革を手に入れて、それを加工する技術を手に入れたんだよ?って話でもある。
      「新撰姓氏録」にある帰化系の部民や連は、だいたいがヤマト王権以後に渡来してきた……みたく書かれているけれど、それは天皇家への「忖度」でないのかな?

      • 山童 より:

        おまけ)
        印度で産まれ洋の東西で発展したゲームにチェスとシャン・チー(中国将棋)がある。
        んで、これらから派生したゲームは幾つもあるのすが。
        日本将棋だけなんすね、我も敵も同じ駒を使い、捕獲した駒を自軍に使えるのは。
        基本的に他の将棋は捕獲=殺です。色やデザインや文字が違うから(卒と兵とか違う)再使用しようがない。
        それは何でか?
        日本将棋は元は双六が発展したというんだけれど、中国将棋と組み合わせて将棋にする段階で、記紀が影響したのでは?

        神武東征です。
        神武天皇は、異族を討ちながらも滅ぼしませんよね?
        吸収して自軍に取り込みながら東征してます。
        この記紀における故事が、日本将棋が作られる過程で、日本独自の「捕殺でなく、味方に使う」という将棋にしたのでないすかねぇ?

      • 山童 より:

        訂正)
        奈良の古墳→キトラ古墳